お祭りの夜店でだれもが一度は、あの金魚すくいでもらった金魚が家に来たことがあるのではないでしょうか。それから、せっかくだからと、ホームセンターなんかで金魚鉢を買って、そこに小さな体の金魚を浮かべて、しばらくの目慰みにするというのも、ありふれた夏休みの出来事でしょう。
そして、すぐに金魚が亡くなってしまい、幼い胸に小さなしこりをつくるという体験も。
「からっぽの金魚鉢」とは、日本の津々浦々で、実はありふれたものでありながら、それでいてだれも目を向けなくて、ありえないものだと感じられます。その中に浮かぶ者を失ったこの金魚鉢は、今はどこにあるのでしょうか。わたしは、この歌を詠んで最初に思い浮かんだ景色は、庭に他のガラス片と一緒になって打ち捨てられている金魚鉢です。その身に受ける者も亡くして、金魚鉢自身も葬られた後に、弔いとして月が照らされるのも、まるで捨てられているよう。空にあれば人々が好んで見上げ、平安の頃では池に浮かんだ姿を賞賛された月が、金魚鉢に映った瞬間に、その光も姿もなにも変わらないのに無価値に見えてしまう、そんなさびしい自分になってしまったことに対してさびしいと感じてしまう。そんな心情を思い浮かべました。
その一方で、この金魚鉢自体は、まだ捨てられてないとしたらどうでしょう。夜店の金魚は庭に立てたアイスの棒の下で眠っている。その金魚のなきがらを運んだまま軒先に放置された金魚鉢に、月が映り込む。鼻をかんだティッシュがゴミ箱に捨てられるように、小さな金魚鉢に捨てられたように転がっている月の姿を、子供がおもしろがって指差している。しかも、その月は金魚鉢の流曲線によって歪んで壊れてしまっている。子供にしてみたら、こんなにおかしいものもないでしょう。
もしかしたら、今は月が捨てられているのだけれど、もともとは金魚が捨てられていたのが、金魚鉢なのかもしれません。子供用のビニールプールの中に放り込まれて、みんなに掬われたり、そのポイから逃れたり。そうして人を楽しませたことで、もう金魚の役目は終わり、あとの金魚鉢での生活は余生と見ることもできます。そしてその余生も、人に弄ばれてボロボロになった体は長くなく、そうでなくとも金魚の飼い方を知らない家に行ってしまえば満足に寿命を送ることもなく。そんな使い古しの金魚が捨てられる金魚鉢と考えると、なんだか背筋が寒くなります。
使われなくなった金魚鉢、亡くなった金魚、捨てられた月……楽しい夏が終わって、秋の涼しさが迫るのを、なんとなく思わせられるお歌です。
奈月遥
不思議な雰囲気の歌ですね。ちょうど月が金魚鉢に入るくらいの大きさで、黄色い光を放っていて、割れたようになっていて捨てられているのかな。
村田一広
空っぽの金魚鉢に月が映っているのを想像しました。空っぽとは言っても、水は張ってあるのかな。住人であった金魚が死んでしまった「空っぽ」の金魚鉢に、月が映る。水面が揺れる。そんなイメージです。
下の句がとても好きです。金魚が住む家としての金魚鉢でなく、ゴミ箱になってしまった金魚鉢に寂しさを感じます。
野崎アン
想像の余地がたくさんある歌ですね!金魚鉢に捨てられているのは何か月のモチーフなのか、実は壊れているのは金魚鉢で月がそこに映ってるのか。そこは縁側なのか部屋の一角なのかごみ捨て場なのか。僕の頭にはごみ捨て場に置かれた割れた金魚鉢に月が映ってるのが鮮明に浮かびました。美しい。
小早川
内容に惹かれました。「金魚鉢には今は」と、近いところに「は」が2つあるのが気になりました。
紫苑
からっぽの金魚鉢はユニークな視点です。壊れた月という表現が何を象徴しているのかうまく読み解けませんでした。
太田青磁
なんとなく人魚姫の世界観を連想しました。
「からっぽの金魚鉢」「壊れた月」という儚く打ち捨てられたアイテムが悲しみを誘います。童話の世界に訪れたような感覚になり、読み手自身に物語を広げさせてくれるような印象です。
遊糸
読むほどにしんみりと情景がしみてくるお歌です。誰しも子どもの頃必ず一度は金魚を飼った経験があるはず。でもすぐに死んでしまってせっかく買った金魚鉢も物置の隅で忘れられてゆく。「壊れた月」が何かの暗喩なのか読み取るのが難しいですが、そのまま壊れたおもちゃや月の置き物だったとしてもいい情景だなと思いました。からっぽの金魚鉢の中に無造作に放り込まれた月。透明なガラスと硬質な黄色の質感が美しく、なんとも言えない物悲しさを醸し出しています。
千原こはぎ
「もう壊れた月」が気になります。どのような状態なんでしょう。月が壊れるって想像できません。それをどのように捨てるのかも謎です。ポルノグラフィティの月飼いという曲では、水槽の水に月を映すことで月を捕まえていましたが、捨てるとなると。金魚鉢に映っているのを捨てられていると言ったのかな。捨てるというのは飼うのと同じように能動的な行動だから、誰かがそこに月を放り込んだのかな。わざわざ? 月を飼うなら分かるけれど、わざわざ捨てるって何があったのだろう。
しかし、からっぽの金魚鉢という寂しいものに月が映っていたら、たしかに「飼う」ではなく「捨てる」だろうなって納得もあります。埃かなにかで綺麗に映らなくて、それを「壊れた」と言っているのかな。
水に映る月というのは定番ですが、それを一捻りして、定番の良さによって物悲しさを引き立てているのがいいなと思いました。
ゆら
金魚鉢に捨てられた月。心を持ってかれました。お月様っていちばん物静かな存在でいて、いちばん饒舌な夜の女神だとおもいます。かなしみもせつなさも歓びも、月はやんわりくるんでくれます。わたしのなかでは神々しい存在のお月様を、金魚鉢に捨てられている、となさった作者さまの意図には、お月様への同情というか労わりのような、せつない背景が漂っているように思えます。
杏野カヨ
とても素敵な世界観でした。ぐっと惹きつけられる雰囲気に投票いたしました
そぼ降る雨
「今」を詠むために、かつては清らかな水が満ち、金魚が泳いでいたであろう金魚鉢が今は…という対比を用いている点、いいなあと思いました。まだ水は入ったままで、そこに月が映っているのでしょうか。月が「捨てられている」というのはそういうことなのかな。
小宮子々